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zoom RSS 分割版・ドラえもん10年10月29日感想(子犬イチの国〜キボウ編〜)1/2

<<   作成日時 : 2010/10/31 08:00   >>

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※こちらの記事は10月29日放送の「子犬イチの国〜キボウ編〜」の感想を二つに分割したものです。内容は既に公開済みの記事と同一ですのでご注意ください。

キボウ編全文感想(分割なし)は→こちら
キズナ編の分割感想その1は→こちら
キズナ編全文感想(分割なし)は→こちら


先週の放送に引き続く後編。ペルム期の地殻変動による危機が迫っていることを知ったのびドラは、イチと別れた数年後の世界を訪れるが、そこにはイヌとネコの高度な文明国が築かれていた。果たして、イチはのび太のことを覚えているのか、そしてこの国の住人たちを救うことはできるのか!?

前回の感想では、後編への不安を長文で綴ってしまったのですが……
ごめんなさい、とても面白かったです。

いや、不安が的中した部分もあるし、疑問点もたくさんあるのですが、こう、ぐっと引き込まれるような勢いもあって、見入ってしまいました。
「ワンニャン時空伝」と似ててどーこーと偉っそうなことを述べてしまいましたが、また異なる手法が用いられていて、なるほどと思う部分も多かったです。

ただ、その一方で前後編として考えた場合、前編との繋がりが悪いなという印象も受けました。


 ◇

子犬イチの国 〜キボウ編〜 ※後編
 →てんコミ22巻ほか「のら犬『イチ』の国」をベースにしたアニメオリジナル


今回も長文です。申し訳ありません。
うぜぇ!という方は→箇条書き部分へスキップ


・感動のための感動ではないキズナ

今回、「引き込まれる」面白さと感じたのは、「イチとの再会」をメインにするのではなく、迫る危機を知らせ、住人たちを避難させるという展開の方が主軸になっていたためではないかと考えました。
後述の諸問題や矛盾をぶん投げている感も否定できませんが、「感動を描くための感動」ではなくて、いかに危機を乗り越えるかという、骨格となる緊迫のストーリーがあって、その合間に(だからこそ)友情とか絆が生きるというような見せ方だったように思えます。

例えるなら刑事ドラマのような感じでしょうか。なにか事件が起きて、それに立ち向かっていく過程で、感じられる、逆に照らされるものがある、支えていることがわかる……というような。
こういうアプローチはとても良いなあと思えました。
むしろ今のわさドラにはもっと必要な手法だと考えます。

果たして住民を説得できるのか、全員が無事脱出できるのか、という展開にハラハラと息を呑む一方で、「のび太さんの僕への愛は、人間を見直すきっかけになったんだ!」
と熱く、決然と語るイチ、イチとのび太が一緒になって岩石をどかそうとする場面など、直接の再会シーンよりも確かなキズナを感じられました。


・前後編の繋がりが悪い

良くも悪くも前編と後編で雰囲気がかなり違ってしまっているように思えました。
これにはまず前編が原作に沿っているのに対し、後編がほとんどアニメオリジナル話になっているということがあるでしょうか。
あるいは意図的試みかもしれませんが、前編で原作を掘り下げ、アニメではどんな風にもっと面白く見せられるかに取り組み、後編で、原作にある要素を使いつつも、どんな風に新たな「ドラえもん」を見せられるかに挑むというのは、なるほどと思わされます。
原作ファンにも二倍三倍面白い試み…ではあるのですが、あくまで前後編を通してひとつの話と考えるときは、オリジナル展開とどのように融合させるかが非常に難しい問題になるのかもしれません。
確かに前編でのび太とイチが過ごした時間が、キズナとして後編で生きてはくるのですが……

前編でせっかくネコの描写を増やして、ドラとの関係性も盛り込んだのに、後編ではただの長官としての描かれ方だったなあとか、首輪を外したのは自由にしたというよりは、捨てることの象徴でもあったのに、「キズナの証」でいいのかなあとか。微妙な齟齬があったような。

……なんとなーくですけれど、「巨人伝」で、キー坊が野比家で暮らしていたパートと、植物星に移動してからの展開のようなものを感じました。あれ、いつの間に別の映画になったんだ、みたいな。

もうひとつは、脚本は同じ大野木寛さんですが、キズナ編は絵コンテが腰繁男さん、演出が吉野芙紀さんで、キボウ編は絵コンテ・演出が安藤敏彦さんだったためでしょうか。

これも意図的だと思います。OPクレジットを見たときはおおっ!面白いなと思いました。
後編であえて雰囲気を変えるための参加だとしたら納得ですし、実際「引き込まれるような勢い」は安藤さんの仕事によるのかもしれません。
が、そうした演出の良し悪しはともかくとして、やっぱり前後編で別の話になっている感じは強めてしまったかなという気がします。
いや、全12回とか26回のアニメなら、話は続いていてもスタッフが違うのは当たり前なんですが。

首輪を出す場面でドラが踊ったりとか、ヒラリマントの場面でのび太が応援?してたりとか、新聞のくだりでスネ夫たちの吹っ飛ばされ方が人間離れしてるとか、そのへんは浮いてしまっていたかもしれません。



・忘れることと再会の意味(2)

前編での最大の(個人的)懸念事項。
再会は主軸ではないようだというのは前述の通りですが、忘れるということに関しては不安が的中したというか、余計わからなくなったと言うか。
ちょっとキツい感想で申し訳ないのですが、「イチたちが進化退化ビームでのび太のことを忘れる」というのは、やっぱり、話の上で生じる心理的問題や矛盾を避けるために用いられていたような気がしました。

別れから「数年後」の世界で、子孫ではなく「本人」たちに再会できたことによって、人間に捨てられた記憶を持っている、人間を憎み恐れる気持ちがある、首輪を忌むという展開は、なるほどという印象です。

でもなぜのび太のことは忘れているの、というと、「お話の都合」のような気が……

単純に、みんながのび太を覚えていて感謝していたら、あっさり警告に従って、話が順調に進んで、早々にピッポの出番になってしまって困るし、なにより、「思い出して!」「信じてよ!」となったほうが盛り上がるから、というのがまずひとつ。

あとは前回も述べましたが、置いていかれたイチたちの気持ちの問題について。
イチは前編で、外された首輪をくわえて、のび太を引きとめようとしていたので、決してのび太と別れて暮らすことに納得していたわけではないと思います。それでもどうしてもイチを飼えない状況において、無茶な手段なりに彼らにできる最大限の力を尽くしてくれたということで、のび太を恨み…はしないでしょう。それでも、複雑なものがあるのではないか、そもそもそんな危険な時代に連れて行ったのものび太たちであるし、というような疑問はお茶濁しになっていたかもしれません。

では忘れる以外にどんな方法なら良かったのかというと、それも思いつかないので、これしかなかったのだろうと納得もしています。
が、結果として、野良だったころや、人間に飼われていた頃の辛い記憶はある程度残っているのに、人間に可愛がられた記憶、のび太の存在はほとんど忘れていた、というのはピンポイントでちょっと都合がいいなあという感じも。

いや、きみ達どうしてこの国が成り立ったのか考えたことないのかい?
という意地悪な疑問も浮かんでしまうわけです。

個人的には「記憶が混乱している」「連続性が失われている」ということかなあと、補完しましたが、そうすると謎になってくるのが神像の意味合いです。


・のび太顔の神像

これが不思議なんですよね……
のび太のことは忘れていて、人間から捨てられたことは覚えていて、恨みや悲しみもあって、
それでなぜ、のび太を元にした神像をつくるのか。

ドラは「イチたちはあの国でのび太くんのこんな像をつくって、感謝の気持ちを表していたんだね」と語っていますが、そんな単純なことなんでしょうか。のび太の顔と感謝の気持ちがイコールで結びついているなら、人間を完全に忌みはしないでしょうし、のび太のことを「覚えて」いたのではないかという気もします。

そもそも公園のシンボルとして建てられている像、そっくりの人間が現れて、何の疑問も抱かずに牢屋に放り込むのがわかりません。モジャ公のあの理論からいくと、「種族が違いすぎて区別が付かない」のかもしれませんが、それにしてはのび太の顔を再現しすぎだしなあ。
人間でありながら人間を見直させるようなのび太の存在がイチたちの中に漠然とは残っていて、そのイメージを彫刻化した……ということも妄想しましたが、なんかしっくり来ないような。

のび太が特別な存在ということではなくて、「人間への愛着の残り」が現れた像なのかなという気もしました。無意識的なものなので、のび太を具体的に記憶している訳じゃない、
だから本人が現れても好意的反応が無かった……とか。

デザインした人?物(イチとは限らないかと)が、たまたま頭に浮かんだ顔で、イチとイチの国の住民も「なんとなく温かい気持ちになるね」とぼんやり感じながら、人間の顔とは明確に意識しないまま、日々視界に入れて過ごしていた。だから下半身が犬だし羽も生えている? など、いろんな可能性が考えられます。

話の構成上のミスかもしれませんが、あれこれ想像する余地でもあるかなあと感じられました。


・残された首輪

これも考えるほどにフシギな点。

ドラは「わたしは無事でした」というメッセージだと解釈していましたが、個人的には「えー?」という感じ。もちろんその解釈もありえるのですが。
キズナの証だと宣言した首輪を置いていくということはどういう意味なのかなあと。

脱出は明確に描かれず、神像を見上げるイチの画の直後が火山弾による火柱だったので、まさか……という気すらしてしまいました。その可能性も否定されないのが、意図的なら深いです。

ドラの言うように「メッセージ」だとしたなら、それはなんだったのか、悪い頭で考えてみました。

1)決別
誰かにもらったものを置いて旅立つのは、決別の意思表示というのは基本でしょうか。その感情がのび太を嫌っているわけではなくて、可愛がってもらったばかりか、大災害からも守ってもらったけど、今度こそ、新しい星で、自分たちの力で生きていきますとか、そういう宣言という見方もできるかなと思いました。

2)神像と合わせて絆や感謝を表す
件の神像のところに置いてきたというのが、またいろいろ想像できるかなという気がします。
想像というより妄想に妄想を重ねている感じですが、のび太さんのことは忘れていた、
けれどこの像を造った意識の根底には確かに絆があった、感謝の想いがあった、だからそれを今改めて示します、これからも変わりませんというようなメッセージ?

単純に像だけ出土したのでは、イチたちはのび太のことは覚えていなかったし、たまたまこんな像を造ったように思われるかもしれないので、首輪によって意味を付与(強化)したとか……苦しいかな。


どういう意味合いにせよ、首輪を置いていったことでキズナが失われるわけではないし、そのことでイチが「忘れる」ことももう無いだろうなという気がしました。

のび太が首輪を回収して、子孫に伝えて、いつかイチの子孫と出会った際に再び……というドラマがあっても面白いかもしれません。

 ◇

「いや、キズナの首輪置いて行っちゃうっておかしいから!」
「のび太のことは忘れてるのになんで像を造れるんだよ!」
等々、単純に「アラ探し」的なツッコミも可能ですし、案外本当にアラなのかもしれませんが、せっかく原作とも「ワンニャン時空伝」とも違う世界を展開した話なので、いろいろと妄想の翼を広げてみました。

普段さんざんミもフタもないツッコミ感想を書いているのですが、「なんだよそれ」と切り捨てるのではなく、想像の余地として、いろいろな可能性を考えられれば良いなあと思っています。
私自身、自分の思いつかなかった視点や考察を読むのがとても好きなので、少しずつ挑戦していければと。
ちょっと今回の前後編では無謀ではありましたが……

一応、本文としてはここまでとしますので、以下はオマケ的に、暇つぶしにでもご覧頂ければ幸いです。


 ◇

※各場面についてはキボウ編感想その2へ続きます。

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