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zoom RSS 「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団〜はばたけ天使たち〜」感想(1)

<<   作成日時 : 2011/04/28 23:59   >>

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公開よりかなり時間が経ってしまいましたが、
もちろん今年も観てまいりました!
「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団〜はばたけ天使たち〜」
今回の感想をひとことでまとめると……


面白かったぁーっ!!
もう一度観たい! いやもう二度、三度!
もっとずっとこの世界に居たい!

に、なるでしょうか。


観て意味が判らないからではありません。
物語は判りやすく、それでいて深く、
観るたびに新たな発見があり、味わいがあります。
なにより話の展開がわかっていてもなお、
それでも映画が終わってほしくない、
ずっとこの世界に留まっていたいと感じさせる、
ある種の中毒性すらありました。

ドラえもんの映画は、
幕が開くと同時に、のび太たちと異世界に旅立ち、
非日常の冒険を味わって、
スタッフロールと共に現実に帰って来る……
それが毎年の春の恒例行事でした。

今年はそれがなかなかできそうにありません。
一つの作品として完結するべき映画としては、
もしかしたらこのような状態は、
良いことではないのかもしれません。

ですが、語り足りなかったことがあったのか?
描写が不十分だったのか、不完全燃焼なのか?と
自問してみてもその答えは出てきませんでした。
少なくとも個人的には、
「大いに満たされたゆえに、またその状態を求めてしまう」、
そんな映画だったように思えます。

ここまでで既に長文、
ここからもさらに長文で申し訳ありませんが、
とにかく面白かったんですよーーっ!!ということが
一番の感想です。


※以下、映画の核心に関わる記述があります



ここからは映画の具体的な内容についての感想に移ります。
原作や現テレビアニメ版に関する記述もありますが、
前作である1986年公開の映画「鉄人兵団」については、
とくに比較をしておりません。

記憶があやふやな部分もあり、
考察というよりは妄想で、かなりこじつけも多いですが、
こんな風に考えたやつもいるのか、程度に
「あたたかい目〜」で流していただければ幸いです。


音楽、絵、キャスト

まずは基本事項から。
音楽ですが、これは…………!!
サントラ出してくれぇ! 挿入歌集出してくれ!!
と叫んでやまないほどの素晴らしさでした。
特にザンダクロスのテーマ(仮)は、
記憶に蘇るたびに胸を熱くさせるものがあります。
ザンダクロス起動シーンのワクワクした曲や、
夜のうら山の不気味さを表現した曲も印象的です。
サントラを出してくれと言いながら、
「映画の中で流れている状態」が
一番、楽曲の良さを引き立てているような気もします。

作画に関しては例年にも増して、
隅々まで見入るような美しさと迫力でした。
キャラクターデザインが金子志津枝さん、
総作画監督が浅野直之さんという組み合わせは、
昨年の「人魚大海戦」と同じですが、
キャラクターの顔の輪郭は
少し丸っこくなったような印象を受けました。
それでいて幼稚な感じではなく、
むしろ鉄人兵団の硬質さと対になりながら、
破壊される街や森の凄惨さ、スケールの中においても、
子どもらしさや日常、「ドラえもん」らしさの感じられる
素敵なデザインだったように思えます。
リルルに関しては少しおねえさんっぽさを出しつつも、
幼さもあり、強気な部分と揺れる部分の表現も見事で、
近寄りがたさと同時に、
その手を取りたいような気分にもなるという……
とても語りつくせない魅力にあふれています。
ピッポについてはは映画が終わった後、
速攻でぬいぐるみを買いに走りました。

背景美術についても同様に素晴らしかったです。
今回は鏡面世界ではありますが、
基本的にほぼ地球上が舞台となりますので、
現実に存在する場所(赤坂プリンスホテル、池袋東口等)や、
のび太のまちのご近所、うら山、高台、空き地が
夕暮れや夜闇に彩られていく様がとても心に響きました。
そんな日常風景が破壊される凄惨さの一方で
森や湖、花の美しさが語りかけてくるものも多く、
劇場販売のパンフレット裏表紙だけで
胸に詰まるものがありました。

レギュラー5人の声優さんの演技も抜群の一体感です。
もはや、上手いなあとか上手くなったなあではなくて、
「この人たちじゃないとダメなんだ!」というくらいです。
少なくともこの「新鉄人兵団」という映画作品については、
リルル、ピッポも含め、
このキャストでなければと断言できます。

音楽、作画、演技、そしてストーリーが、
何一つ欠けることもできずに、
一体となった素晴らしい映画だったと思います。


日常のなかの巨大ロボット感

そもそも「鉄人兵団」という作品は、
「のび太のまちを舞台にした巨大ロボットものの大事件を描く」
という発想から始まる物語でした。
(てんとう虫コミックスアニメ版「のび太と鉄人兵団」藤子・F・不二雄先生のあとがきより)
現実世界に影響を及ぼさないために設定された
鏡面世界内とは言え、
日常の風景でロボットが動き回る興奮こそ、作品の肝であり、
私が楽しみにしていたのもまさにそれ。
きっと多くのファンも同様に期待していたと思いますが、
それを見事に表現してくれた!という印象です。
ザンダクロスの部品の重みで庭の木が曲がっている様子や、
窓枠を外して表に出す手間とその大きさの表現、
歩くザンダクロスの衝撃で洗濯ものが揺れる描写、
ずっこけたら電柱にぶつかってしまうというギャグ&リアリティ、
高速道路を障害に見立てて跳び越えたり、
高層ビルのガラスを鏡に見立てての、
「バレエを踊り舞う巨大ロボット」の画のフシギさなど、
「こんなのが観たかった!」という映像の連続でした。

そして今回はその「楽しさ」「フシギ」さに加えて、
見慣れた日常の風景が一変する破壊描写が、
恐ろしくも引き込まれていきました。
鏡面世界ですから人や動物は居ません。
ですが、のび太たちが止めなければ、
そのまま現実の光景に……!
と、いう怖さが背筋を寒くさせ、緊張を高めます。

リルルとの地下道の階段のシーンは
池袋駅東口駅前がモデルでした。
私は実際に何度もここを歩いたことがあります。
お馴染みののび太のまちの空き地も高台も、
うら山も小川も出てきます。
序盤では現テレビ版でおなじみの
クラスメイトの女の子や男の子も出てきました。
だからこそ、日常を破壊し尽くす鉄人兵団の恐ろしさ、
「地球が焼け落ちていくみたいだ……」というセリフが、
自分事のように感じられたのかもしれません。

のび太たちと一緒に、物語の中に居る感覚を味わえる、
そんな移入ができる作品でした。


子どもだけで、世界を救う、希望と絶望と〜

ドラえもん映画全作に言えることなのですが、
小学生の子どもたちが、
それも、普段苦手ばかりののび太が、大きな敵と戦う、
大切なものを守るための冒険を繰り広げる、ということが、
胸躍らせ、楽しみで仕方がありません。

それはカッコいいし、憧れもするけれど、
同時にとてつもなく怖くはないのか、
不安に押しつぶされそうにはならないのか?
ということも考えます。

原作や今回の映画で最も好きな場面の一つが、
「月夜のバーベキュー」です。
無人スーパーでの「カップラーメン天国」からの流れといい、
「いつもの空き地で、子どもだけでバーベキュー!」
という楽しさが最高にお気にいりです。

最高なのですけれども、
恐ろしい敵が間近に迫っていることを知っている側としては、
のび太たちの心境はどうなんだろう、
どうして楽しそうに笑えるのだろうということを
ずっと考えていました。
それだけに、その疑問をピッポが
「あしたの夜には鉄人兵団が攻めて来るってのに…」
と率直に口にしていたことに、ぐっと来るものがありました。

前の項とも重なるのですが、「鉄人兵団」での戦いは
本当に日常ののび太のまちを舞台にしているのですよね。
(鏡面世界の)しずかの家は、一階の部屋が破壊されました。
子どもにとっては生活の基盤で、
安心の場所であるはずの自分の家が、です。
のび太についても鏡面世界の自分の家で、
「いつものように」布団を敷いて、
パジャマに着替えて眠る描写があります。
しずかも、ジャイアンも、スネ夫も、
おそらく自宅で休んだのでしょう。

こうした疑問に対する直接的な描写はほとんどありません。
ですが、平常を保ちつつ、
のび太たちだって怖くないはずはないのです。

「どう考えたって結果は見えてる!」
というスネ夫の叫びは決して臆病ではないでしょう。
おそらくのび太たちも観客も、
きっと同じ怖さを抱えていたと思います。
それでも立ち向かっていける強さ、
その原動力は何か?ということは、
今でもずっと考え続けているのですが、
のび太は「ひとりではない」こと、
「仲間が居る」ということがあるのではないかなと考えます。
ドラえもんの存在も大きいでしょうが、
それは無条件に便利に頼る存在ではなくて、
友達としての存在だろうなあ…と勝手な想像をしてみたり。

この作品に限らず、「魔界大冒険」でも他の話でも、
のび太たちは「世界の終わり」的な光景を
何度も目にしてきました。
その怖さも十分わかった上で、
それでも立ち向かっていける彼らは
なんて凄いんだろう、強いんだろう、と尊敬する気持ちを
3月11日以後、改めて感じるようになりました。


原作にあるセリフを広げる試み

前作の映画は原作漫画と同時進行の制作であり、
その原作漫画も連載後、
大幅な加筆修正を加えたものである……
という点を考慮した上でも、
想像以上に原作に沿ったものであり、
想像以上に原作から広げたものでもあるなということを
強く感じる作品でした。

労働ロボットや貴族ロボットといった身分制度については、
原作にも確かに記述があります。
ジュドが「土木作業用ロボット」で、
リルルがスパイとして作られたロボットであるという設定も。
しかしそれがこんな風に物語を広げることになるとは!

歌に関するくだりは映画オリジナルでしたが、
差別を具体的に感じさせるエピソードとして象徴的で、
「人間もロボットも同じように」
感動を分かちあえる存在であることを感じられる
重要な要素に仕上がっています。

さらに驚愕したのが、
「ゴミなんかじゃありません」のセリフ。
リルルに関しては確かに原作どおりの使われ方でした。
ですが、今回の映画を観て、
私はこれまで何十回と単行本を読んできて、
何も読み解けていなかったのか、と思い知らされました。

人間を、他者を「ゴミ」だと切り捨てるその考え方、
それこそが「他人を思いやるあたたかい心」を
持っていなかった、
「どこかで進む道をまちがえていた」
ということだったのでしょう。

「ぼくはゴミなんかにならない!」と叫んだピッポ、
あるいは、本当にゴミとして捨てられていた人形を拾い、
「悲しんでいるような気がした」と語るしずか、
それら、オリジナルのエピソードが加えられたことで、
このことがより明確になっているように感じられます。

「何千何万体壊されようとも、
代わりのロボットは無数にいるのだ!」
という総司令官のセリフも特に印象に残りました。
私は、敵は「敵役」として全う出来てるかは気にしますが、
これまで個人的な感情は持ったことがなかったように思えます。
ですが、今回は「お前だけは許せない!!」と
叫びたい気分になりました。
総司令官のこのセリフも原作と全く同じなのですが、
ザンダクロス=ピッポがボロボロになりながら戦い、
のび太に「大丈夫」と語りかけているのを観ていると、
「ロボットでも『代わり』なんか居ない!!」と
自分でも驚くような強い怒りが湧いてきました。

その行動も発言も、
「他人を思いやるあたたかい心」の欠如を示すもの、
そんな作品上の必然性を考えても、
見事な演出としか言いようがありません。

もうひとつその意味の深さに驚かされたのが、
「『わたしたちと同じように』、
それ以上に複雑な心をもっています」
というリルルのセリフです。
向こうから見れば、「人間が」ロボットと同じように、
複雑な感情を持っているということ……
思いやりの心をかつて持っていた、
あるいは取り戻せるだけの可能性がある、
そんな視点も今まで全く気づかなかったものでした。

オリジナルキャラクターであるピッポの喜怒哀楽も
ここから来ているものでしょうか。
今回の映画でジュドの頭脳は
ヒヨコ型ロボットに姿を変えましたが、
「性格は変わっていない」と明言されています。
リルルがジュドを「気まぐれ」で助けたのも、
地球に来る前、メカトピア星にいる時点でした。

本当に、原作にある要素を使いながら、
「これはこういうことだったのか!」
「なるほどこんな展開が!」
と、作品世界を広げているということが、
原作つきアニメとして
理想的な域に達しているのではないかと考えます。


ピッポとリルル

ピッポは原作にはいないキャラクターでしたが、
単なるマスコットキャラに留まらず、
「新鉄人兵団」という物語には不可欠な存在となりました。
原作での「異質の存在を無理やり改造して味方につける」
という行為が、
「他人を思いやるあたたかい心」
というテーマに矛盾することのみならず、
ひょっとしてこの「ドラえもん」という作品全体のテーマとも
齟齬をきたしていたのではないかなということにも、
改めて気づかされた次第です。

正直なところ若干の無理はありましたが、
リルルとピッポの心がつながっているという設定によって、
リルルの、ピッポの、決意と行動が、
より自然で納得できるものになっていたと思います。
終盤、どうしてもしずかとリルルが中心になってしまう物語が、
ピッポの存在によって、のび太もしっかり中核を担えていたのは、
個人的にも嬉しい限り。

しずか―リルル、
のび太―ピッポの関係性によって、
逆にリルルとピッポ、
そしてしずかとのび太の関係が引き立つのも良かったです。
テレビ版でちょうど「のび太の結婚前夜」が
放送されたこともありますが、
のび太としずかの二人は、
同じように思いやりの心を持ち、同じものを大切に、
同じ道を歩んで未来を紡いでいける二人なんだろうな
ということを感じました。

過去に介入して未来を変えるという
「鉄人兵団」の物語の構造は、
「ドラえもん」という物語の発端そのものでもあります。
そういう意味でも、
のび太としずか、ピッポとリルルは
アムとイムでもあり、
「はじまりの二人」でもあったのかなと妄想しました。


テレビアニメ版との関連

この項は特にこじつけになるのですが、
今回は現在のテレビシリーズを思い出すことの多い映画でした。

大あばれ、手作り巨大ロボ」や前述の「のび太の結婚前夜」も
そういった要素がありますが、
個人的に一番に記憶に蘇るのが、
2010年12月17日放送の「聖夜のドロボーサンタクロース」です。
この話は05年6月10日放送の「ココロコロン」のリメイクであり、
09年12月11日放送の
聖夜ののび太クロース」(サンタメール)の
リメイクにもなっているという少し特殊なお話でした。

原作「ココロコロン」を、
「新しいクリスマスプレゼントが来ると、
前のおもちゃを大切にしなくなる」
という切り口で描き直した名作ですが、
今思えばまさに「新鉄人兵団」へバトンを渡していた
エピソードだったのかなという気がします。

しずかが捨てられていた人形を拾い、
「お人形さんにだってきっと心はあるわ」と語ったくだりでは、
「ココロコロン」の話を重ねた方も少なくないでしょうか。
原作を何度も何年も読んできたというオトナばかりでなく、
テレビアニメのドラえもんを毎週見ていて、
春休みの映画も観に行ったよ!という子どもも、
「あ!こういうお人形の話、しばらく前に観たぞ!?」
と気づくことのできる、そんな仕掛けだったように思えます。

人形の気持ちという、本来存在しないはずのものを具現化した
あの物語を覚えていれば、
なお、しずかの語る意味や、のび太の実践したことが
理解できるのかもしれません。
驚くことに、人形=ロボットの「歌」が
象徴的な使われ方をするという部分まで重なっていた作品でした。

こじつけであり偶然かもしれませんが、
「ドロボーサンタクロース」の脚本の水野宗徳さんは、
テレビアニメ版ドラえもんの
シリーズ構成という中核を担われているので、
もしかしたら映画の展開をご存知の上で……?

その他、ピッポはテレビ版のミニコーナーにも
出演しておりましたが、
今回は映画とテレビでピッポのキャラが大きく違うことは
なかったように感じます。
のび太との関係は「口喧嘩しつつも友達?」という感じで、
若干あっさりしていた気もしますが、
あれは映画の物語の中でこそ育っていく関係だったと思いますので、
完全に親密でないように見えたからこそ、
映画での衝撃と感動が際立ったかもしれません。
予告編からいっても、
のび太と友情を育むんだろうなとは思っていましたが、
まさかあそこまで胸に詰まるものになるとは……

原作に居ないキャラだけに、
多くの人が感じていたであろう当初の不安と警戒心を
このミニコーナーが徐々に和らげていったのも確かでしょうか。
劇場でも子どもが
「あ!ピッポだ!」と声をあげていたのが記憶に残ります。

また、今年は残念ながら「映画アナザーストーリー」は
放送されませんでしたが、
映画と同じ清水東さん脚本の
鏡の中の世界」(11年2月12日放送)によって、
鏡面世界の特徴について予習できるようになっていたことも
付け加えておきます。

のび太のまちの日常描写なども含め、
普段のテレビ版と映画が別物ではなく、
連続していたように感じられたのが、
とても嬉しい作品でもありました。


わたしとあなた、そして、みんな

やはり避けては通れないだろうということで、
挿入歌「アムとイムのうた」の意味も
妄想してみたのですが、
一番は「同一」、二番は「別個尊重」、
真・三番が「思いやり」という感じでしょうか……?
個人的印象ですので軽く流していただければ幸いです。

ただ、この曲と作品を思い返してみた時に感じるのは、
「わたし」という自分だけではなくて、
「あなた」という他者が、
さらにはもっと広げた異質の存在を含む「みんな」が、
必要なんじゃないかなということです。

ジュドの頭脳はのび太との出会いによって、
ひよこロボットとしての姿と、
「ピッポ」の名を与えられます。
ジュドの頭脳としての機能も性格もそのままですが、
「メカトピア星の労働ロボット」
としてだけではない、
のび太の友達「ピッポ」として、
新たな自分を得たのではないかなと感じました。

ピッポという名前に反発していた彼が、
のび太に「その名前大好きだよ」と答えたとき、
遠回りしちゃったけど友達になれたのでしょうか。
名前を与えるというのは、
他者により相対的に与えられる自己
ということだったのかなあ?とも考えます。

リルルについても同様に、
しずかから人間の少女の可愛らしい洋服を与えられました。
その「強気な女が可愛い服を着ているギャップ」が
(金子志津枝さんのキャラ設定より)
「地球人そっくりの姿をしていること」を求められていた
「スパイロボット」から離れ、
ひとりの少女型ロボットとしての姿を表すのかな?と、
そんなことを妄想してみました。
そもそも衣服を必要としないロボットだけに、
何を(選択して)身にまとって見せるかということに、
自分が何者であるのかという意識が現れるのかな、等々
いろいろ考えられます。

自分は自分だけ居れば「自分」でいられる訳ではなくて、
他のみんなが居て、「社会」の中に居て、
その中で相互にやりとりをして、
いろいろな立場や属性を得て形作られるものなのでしょう。

できれば異なるものを排除することなく、認め合い、
やり取りの中で多様なものを得ていけたら良いのではないか、
そのために必要になるのが、
「他人を思いやるあたたかい心」なのかなあ、などと、
いささか壮大なところまで想いを馳せてしまいました。

人間も人間だけのことを考えるのではなくて、
人とロボット、あるいは動物、自然、宇宙人等々
より多様な存在と友達になっていけたら
それはとても素敵なことではないだろうか、
と、そんなことも思うのです。
極めて理想論ではありますが、
それを実践してきたのが
のび太たちなんじゃないかなと感じています。

のび太としずかから続く、
「ドラえもんの生まれた未来の地球」というのが、
「メカ救急箱」が存在するような世界なのですよね。
子どもの教育用であったり、
病院に行けない状況を想定したものかもしれませんが、
壊れたロボットをひょいひょいと「修理」するのではなく、
人間並みの「看病」が必要な道具です。

もちろん「お話の都合上」なのは承知しておりますが、
あえて作中の設定というものに入り込んでみますと、
人間とロボットの分け隔てなく、
同じように大切に想い、
治ってほしいと行動することが前提の道具のように思えます。

昨年放送の「VSイヌ型ロボット」での手の平の返しようなど、
22世紀の人間とロボットの関係にも
まだまだ危なっかしいところはあるのでしょうが、
それでもこの映画での、のび太やしずかを見ている限り、
そんな素敵な未来に向かって、希望は持てる気がします。


三つの星とペンダント

これが今回の映画の核心部分であり、
最も「なるほど上手いなあ」と感じた箇所でした。

リルルがピッポに星を分け与えたため、
心がつながっているという設定、
そしてアムとイムにもリルルの星を与えることで、
リルル、そしてピッポが感じてきた想い、
「他人を思いやるあたたかい心」を伝えるという展開は、
よくよく考えれば多少無理がなくもありません。
奇跡的ですらあるかもしれません。
ですが、決して「ありえない」感じではなく、
星が一種の記憶思考回路だと考えれば、
十分起こりうる範囲の奇跡だなというのが、
本当にすごい!と思えました。

少々言葉が悪いですが、
「伝説の○○」「想いの力」うんぬんで、
「考えるんじゃない、感じるんだ!」的な
根拠原理不明なファンタジー方向へ行ってしまったことが
過去の映画には何度かあったので、
今回はそうならずに、
想像で補える範囲で、整合性がとれていたのが
非常に良かったと思います。

しずかのペンダントの星には
おそらく科学的には意味がないでしょう。
ですが、受け取った想いが
これに「宿っているとする」
リルルの思考には意味があると考えます。
お守りやプレゼントと同じで、
その物自体に力があるかどうかではなく、
受け取った人物が何を感じたか、
それをどんな想いの象徴とするか?
と、いうことではないかと。

そうした意味で考えれば、
あの行為も決して
雰囲気重視のファンタジーにはならないでしょうか。
ペンダント単独ではなく、
他の二つの星=リルルの心と一緒に入れているあたりが
また解釈を広げられるようになっていると思えます。

ただのガラスのペンダントを
特別なものとして捉えられるかどうか、
その点でも、捨てられていたお人形(ココロコロン)
のエピソードが生きてくるのが見事でした。

余談ですが、2008年9月5日放送の
ドラえもんの青い涙」という話に、(※寺本監督が絵コンテ・演出)
代替の利かない宝石を動力源とするロボットが出てきたことも
思い出しました。
今にして思えば、あの宝石が彼の記憶や思考を集積した
魂的な装置だったのではないかなという気がします。
「ドラえもんが生まれ変わる日」などもそうですが、
記憶を失った人間が自分の存在をも見失ってしまうのと同様に、
ロボットでも周囲との関わりの中で
見聞きし感じてきたことによって、
自分を形成しているのだろうなと思えます。

そうやっていろいろ考えれば考えるほど、
見事なオリジナル要素でした。
もちろん小さい子にもキーアイテムとして分かりやすく、
女の子には特に憧れをもって伝わったんじゃないかと思います。
もちろんお星様ペンダントは買いに走りましたよ!


羽根をつけたら

総司令官をはじめとする鉄人兵団の姿を
改めて劇場で確認した時に感じたのが、
「羽根があるじゃないか!」ということでした。
副司令にマンティスにテントにカトンボetc.…
全てではないかもしれませんが、
主だったメカトピア星のロボットは昆虫を模しており、
羽根状のパーツを有しているものが多いようです。
よく見れば、アムとイムにも触角らしきものが見えます。

愚かな人間から離れ、
天国のような社会を築くにあたって、
象徴的なイメージとして用いられたのが、
羽根を持つものであり、虫であったのかもしれません。
しかしそこにアムとイムの精神を残しつつも、
虫型以外のロボットがほとんど見受けられないことに、
他を認めない、排他的なものをも感じさせます。

その中においてジュドの頭脳は
労働ロボットというだけでなく、
外見からも明らかに差別される存在だったのかもしれません。
地球人捕獲作戦のために、
下等生物そっくりの姿で生み出されたリルルは、
異色中の異色な存在とも言えるでしょう。
映画冒頭でのロボットたちのざわめきが印象的です。

タケコプターなしで飛ぶリルルの姿からも判るように、
飛行のための機関は羽根状に限定されるわけではないようです。
にもかかわらず、虫の羽根を持つロボットばかりの星で、
羽根も生やさず、スパイの役を全うするために、
人間の少女の外見をしていたリルル、
そして単独では飛ぶことはおろか、
大地を踏みしめることすらままならずに、
機能のみを求められていたジュドの頭脳。

だからこそ、物語の最後にのび太が見た、
あのふたりのシルエットが
メカトピアが本当に天国のような素敵な星になったことを
示すのではないかなあという気がします。
消えたリルルが生まれ変わった、というだけではなく、
ピッポが単純に「カッコいい鳥」になったのではなく、
それが許される世界になったのではないか、
「自然にその姿でいられる世界」になった
ということではないかな、と、
そんな気がします。

原作に「観光旅行」という言葉が出てきますが、
あのふたりが、あの姿を選んで(肯定して)、
地球へ、のび太のもとへやってきてくれた!ということ、
それが本当に嬉しく、
温かな「読後感」のある作品だったのではないかと思います。


 ◇

非常に長くなりましたが、
ここまでお読みいただきありがとうございます。
もう少し詳細に「この場面が好き!」という話や、
「ここはちょっとひっかかるかも」という話は
感想記事(2)として公開しました。

→「映画ドラえもん 
新・のび太と鉄人兵団〜はばたけ天使たち〜」感想(2) 
気になった点と鑑賞メモ


とにかく、本当にどの場面も
すみずみまで見入り、魅入られ、
その意味を考えたり、妄想したり、
いつまでもいつまでも浸って居たくなる様な、
素晴らしい映画でした。


寺本監督をはじめとする、
この作品に携わった全ての皆さま、
そして感動や意見を交換・分かちあったファンの皆さま、
本当にありがとうございました。

これからも続いていくのび太の物語を、
また楽しみにしたいと思います。

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